社長奥さんコラム

尾形光琳と平賀源内の櫛

2012.01.10

今回は江戸中期、芸術や文化の面で最も豊かであった時代に生まれた、光琳(1658~1716)と源内(1726~1779)、この二人の天才が、女人の櫛にかかわったお話です。

光琳の櫛は、今期はシーズン展の最終日11月28日まで「澤乃井・櫛かんざし美術館」の会場の中央に展示されていますが、「源内櫛」は時々、他の櫛と並んで姿を見せています。

ご存知琳派の巨匠・尾形光琳の芸術の根源は、多分にその出自にあるようです。

本阿弥光悦の縁戚として、茶道、能楽の世界に通じ、一流の文化人を知己、後援者に持った彼の生家「雁金屋」は、東福門院政子に出入りする京都一の呉服商として有名でした。

また、弟の乾山(けんざん)も画家、陶工として知られていますが、二人とも、幼い時から身についた美の質と量は、比類のないものであったでしょう。

光琳作・国宝「紅白梅屏風図」(MOA美術館)や「燕子花図屏風」(根津美術館)の持つ大らかで豊かな美しさは、雁金屋の生業、呉服衣裳の裾模様に通じる発想ではないでしょうか。

こんな逸話もあります。講釈だねのような気もしますが、雁金屋が倒産した後も、光琳は、公家、大名、豪商達の引立で画や蒔絵の注文が殺到し、豪勢な暮らしをしていました。

或る時、お大尽達と花見に出掛けました。いずれも大変なお道具に料理を詰め、美女を侍らせ、目も綾な贅比べが始まりました。

「光琳さんは如何に?」と皆が注目する所へ取り出したのは、何の変哲もない竹皮の包。呆気にとられた人々が見守る中、光琳が広げると、竹皮の裏には絢爛豪華な金蒔絵がほどこされ、中にはおむすびが・・・・・。

「さすが」と一同感激、お重箱達も小さくなっているうちに、食べ終わった光琳、惜しげもなく、ポイと竹皮を川へ放り、たちまち波間にかくれて行ったとか・・・・・。

時は、奢侈禁止の世の中でもあり、光琳は京に居辛くなり、江戸へ出ることになります。江戸では、画といえば武骨な狩野派の全盛時代ですが、ここでも光琳は酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清、老中酒井忠挙(ただたか)の庇護を受け扶持を与えられ、大名諸家の注文も引きも切らずであったといいます。ただ光琳には、お抱えとして義務的な仕事が性に合わなかったようで、足かけ4年で京都へ帰りました。

その期間、江戸で光琳が厄介になったのが、現、江東区深川の材木商、冬木屋政郷家。江戸を去る時、冬木夫人に御礼として贈られたのが「冬木小袖(国立博物館蔵・白地秋草文様)」。

そして、その時、共に贈られたと言われるのが「鷺文様蒔絵櫛」です。

光琳作のこの櫛が(ひとり歩きの後に辿り着き)青梅「澤乃井・櫛かんざし美術館」に十年前から収蔵されています。

この櫛をテーマにして芝木好子さんがお書きになった小説「光琳の櫛」が新潮社から出版されたのは昭和54年6月のことですが、この小説のモデルになったのが「澤乃井・櫛かんざし美術館」の基になった「岡崎コレクション」の岡崎智予さんです。

岡崎さんは、彼女のコレクションが、そっくり青梅へ引きつがれ、更に収蔵品の充実が、広範囲にわたって図られて行くのに驚き、かつ、喜びつつ平成十一年に亡くなられました。

京都祇園育ちの岡崎さんが、江戸下町育ちの芝木さんの感性によって、小説では、むしろ「江戸っぽく」描かれている点、興味深いことです。

なお、ここに付記したいことは、光琳に私淑した酒井抱一(1761~1829)が、光琳の作品から特に顕彰すべきとして、自ら写しあげた意匠・文様を鋭意編纂した『光琳百図』。その中で重要な位置を占めているのが、櫛になった「白鷺」の図柄であるということ。『光琳百図』は光琳没後、百回忌に寄せて世に出され、そのまた十年後には「後篇」も出版されています。

こうして、才と運と縁に恵まれた光琳の技による櫛は、金蒔絵に、一羽の沈思する白鷺が銀うるしで描かれ、ひっそりとした姿で、独特の存在感を漂わせています。小振りな櫛ですが、ひと目見たら忘れられません。

それに対し、光琳より70年程遅れて讃岐藩士の家に生まれながら家督を放棄し、長崎へ出て蘭学を志した平賀源内は、その才気煥発、学力、行動力の余りにも並外れた勢い故に、自滅した天才でした。

井上ひさしさんの書かれたものによると『源内は本草=博物学者であり、国益の為に経世を図った経済学者風のところもあり、文学者でもあった。しかも、どの源内もその分野では当時の第一級。物産会を主催したかと思えば、伊豆で下剤原料の芒硝(ほうしょう)を発見したりする。博物学の書物を刊行し、石綿を発見し、火浣布(かかんぷ・不燃織物)をつくり、寒暖計を制作し、エレキテルを復元する。秩父・中津川で金山事業に乗り出したと見る間に千住小塚原で刑死の腑分に立ち会い、長崎で西洋画を描く。筆をとればそれが戯作の草分けとなり、新作浄瑠璃をひねり出せば、「江戸弁による最初の浄瑠璃だ」と評判になる。その他ラシャを織り、源内焼の皿を焼き、婦女子の奪い合いの櫛をつくる。いつも大忙しの、本人が言う「大取リ込ミ」の人なのだ。』

まだまだ、その他にもあり、呆然とする程の活躍ぶりなのですが、世間の評判は大山師。これだけの事業に援助も補助金もなく、常に金に追われ、最後はふとしたことで門弟を殺め、獄死という無惨なことになりました。

しかし、源内という人は、江戸の文明開化期の、あらゆる面での先覚者でもあり、私達がいま恩恵を受けていることも沢山あります。

源内の悲願は世界一の植物辞典のような書物をつくること、だったのを思うと、その資金を得るために狂奔せざるを得なかったことも納得できて哀れです。

共に蘭学を学んだ杉田玄白は、源内の死を悼んで、「嗟(ああ)非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ行ヒ是、非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」と自ら建立した墓碑に銘として記しました。

源内の資金稼ぎの一つに、江戸で開いた小間物細工の店があります。皮に金を塗って煙草入れなどに加工した金唐皮(きんからかわ)や櫛を作って売ったりしました。

南蛮渡り、つまり舶来品も扱っていたことでしょう。今でしたら海外ブランドを店頭に置く一流店、だったのではないでしょうか。

やっと櫛が出て来ましたが、この櫛は「菅原櫛」と言い、長崎で仕入れた伽羅の香木に、金銀のフレームをつけ、絵模様を刻み、象牙やべっこうの歯をつけたものです。非常に贅沢な品でした。

伊達者の源内は、当時の吉原の一の売れっ妓おいらんにプレゼント。これを髪に挿させて宣伝し、大評判になったと伝えられています。残念ながら文献で知るのみですが・・・・・。

しかし、とても高価で手に入れにくい物なので、早速模造品が続々と作られ、「源内櫛」と呼ばれて江戸の町に流行しました。

本来、もろい香木を補強するためのフレームですが、種々の安い材質の櫛に、必要のないフレームをつけて、「源内」の名を冠して売られた、いわばまがいものの櫛。この「源内櫛」が澤乃井・櫛かんざし美術館に幾点かあります。

幸せのオーラに包まれて生きた光琳に比べ、その死を心の底から悲しみ惜しんでくれたのは杉田玄白ただ一人の源内。

源内の作ではない「源内櫛」。それを手にとる度に私は、胸に迫るものを覚えます。模造品であるが故に、一層、「その時代」を語ってくれているようにも思えす。

巷で作られ、しきりにもてはやされる「源内櫛」を、源内はどんな心境で見たことでしょう。
美術館の古い櫛、一枚一枚には、それぞれ厖大な物語がひそんでいて、何事かを訴えているようでもあります。四季の展示替えも、ご来館の方々のお眼に触れる機会が、一枚一枚に平等に与えられるように気をつかっています。

鷺文様蒔絵櫛 法橋光琳(印)  8,5cm

鷺文様蒔絵櫛 法橋光琳(印)  8,5cm

源内櫛と呼ばれた銀フレーム付きの櫛 表・裏  12,0cm

源内櫛と呼ばれた銀フレーム付きの櫛 表・裏  12,0cm

img06_10_1

ページトップへ