社長奥さんコラム

百年前の日本全国美人コンクール

2012.01.24
今回は、明治40年(1907)日清・日露戦争の結果、日本が列強の仲間入りを果たした後、16歳の深窓の令嬢が遭遇したある事件についてのお話です。
この話は今年、創立10年を迎えた「澤乃井・櫛かんざし美術館」の蔵書の中から偶然見つけた資料によります。
明治40年、アメリカの新聞社シカゴ・トリビューン紙が世界の美人選びを企画して、日本にも参加を要請してきました。それに応えたのが福澤諭吉翁(1835~1901)が明治15年(1882)に発足させた新聞社「時事新報社」でした。
時事新報社は日本の新聞社22社に呼びかけると同時に、コンクールの応募締め切りまで、毎日のように広告や論説を載せました。
世論は盛り上がり、東京市内の有名写真館が応募用の写真撮影代を通常の半額に割り引くことを申し出たのをはじめとして、化粧品会社等の多くのスポンサーが続々と参加協賛を発表し、提供賞品の総額は3、000円にも達したと記述されています。(当時の3,000円がどれほどの価値であったのかは後ほど述べますが・・・‥)審査の方法としては、先ずその年に集まった全応募写真約7,000枚の中から第一次として214名の各県代表が選出されました。
当時のことですから写真はモノクロで、身長もスリーサイズの記載もありません。アップの顔写真です。
そして翌年、第二次審査が時事新報本社で行われ、全国1等から12等まで選ばれました。(「位」ではなく「等」というところが面白く、往時をしのばせます。)
審査員は下記の通りでした。
洋画の岡田三郎助。日本画の島崎柳塢。写真学者の大築千里。女形の河合武雄・中村芝翫。美術鑑識家の高橋義雄。彫塑家の高村光雲・新海竹太郎。人類学者の坪井正五郎。写真技師の前川謙三。容貌研究家の前田不二三。医者の三宅秀・三島道良。
と、女性が一人もいないのも口惜しいことで、私は『源氏物語』の「雨夜の品さだめ」を思い浮かべてしまいました。
ちなみに、賞品は・・・‥
1等 18金ダイヤモンド指輪(価300円)
2等 18金梨地無双ダイヤ入懐中時計及び18金ルビー真珠入首掛鎖(150円)
3等 18金白金製桜に流水透彫ダイヤ帯留(100円)
となっています。
偶然かどうか(意図してかどうか)、このダイヤモンドの指輪の300円というのは、例の『金色夜叉』で、お宮が貫一をうらぎったダイヤと同額です。尾崎紅葉が、この小説を発表したのは明治30年のこと。
ものの本によれば、明治30年、小学校の教員の初任給は8円です。巡査のそれは9円。明治39年には日露の戦時インフレで12円になったとあります。300円を12で割ると・・・25。つまりは巡査25人分の初任給を合わせた額。
また、各県代表に選ばれた美女達にも、それぞれ宝石入りのアクセサリーが贈られ、美女を推薦した人達にも1等から3等まで、50円から10円が贈呈されるという豪華さでした。
何故そんなにまで力を入れたのか・・・‥その理由としては、女性の健全な品格ある社会進出の一助に、ひいては、社会全体の近代化のためにという、新聞社側の強い思い入れがあったればこそ、と考えられます。
当時、日本では、写真が普及しつつあったとはいえ、世間の眼に触れるのは浮世絵の伝統を多分に受けついでいる遊女や芸者の写真のみだったようです。
上流階級の女性の写真が一般に出まわって、鑑賞の対象になることなどは皆無に等しく、ましてや、自ら写真のモデルになるというようなことは、実に、はしたないことと思われていたのが、当時の風潮です。
新聞社側にとっては、こうした状況を打破しなければ、と、広告や論説によって、その主旨の徹底化に努めたという次第なのでしょう。
今だったら、明るく、華やかな話題として、万人に何の問題も無く受け入れられるとしか思えませんが、当時は、社会倫理をくつがえすようなことで、反発や抵抗も強かったようです。
この事実は私の言葉で述べるよりも、当時の新聞記事をそのままお伝えするほうが、その時代の空気の密度を肌で感じとっていただけると思いますので、少し長くなりますが引用いたしましょう。
当選者写真集『日本美人帖』(明治41年)の趣意書の中にある一文の紹介です。『日本美人帖』というタイトルからして時代ものですね。
そこでは先ず、「元来過度の謙譲抑損(よくそん)を以て唯一の婦徳と誤信せる我邦の風習と相容れざる点ありて、募集者の困難は、殆んど名状すべからざるものありしかど・・・‥」と嘆き、さらには、「此帖載(ちょうさい)する所は、悉く良家淑女の真影にして、いやしくも容色を以て職業の資となすが如き品下がれる者に非ざるが故に、観る者は相応の礼意を以て之に臨み、彼の坊間(ぼうかん)に有りふれたる醜業者の写真と同様に心得ざるようありたし」と懇ろな念押しをしています。今から100年前のことです。
この『美人帖』の巻頭を飾ったのは「厳正なる審査の結果」選ばれた全国1等の、末弘ヒロ子(福岡県代表・16歳、女子学習院中等部2年)でした。
彼女を推挙したのは、姉の夫、義兄にあたる人で、かわいい妹を自慢するつもりで本人にも家族にも無断で送ったものでした。
あとで知らされたヒロ子が、泣いて抗議、「もし3等にでもアタッタリしたら、学校で叱られます。どうか取り戻して下さい。」などと言っているうちに3等どころか1等にアタッてしまい、当然学校でも大評判になってしまいました。
それからが大変です。院長の乃木希典将軍が新聞に意見を発表します。
「女子部にありては、軽佻浮薄の弊を戒むるに努め居れるが、先頃某新聞社が美人写真募集せしみぎり、2年末広ヒロ子が1等と発表せられしに至れり。良妻賢母を育てる教育方針のなかで自分の容姿を誇示することは、生徒としてあるまじき行為」と決めつけ、「他の生徒の取締上停学又は諭旨退学に処す。」
そこで汚名を晴らそうと、父親や義兄が上京、院長に説明、嘆願しましたが、結局自主退学となり、勉学なかば、友達とも別れ、何の罪もないヒロ子は国元へ帰ることになりました。
これに対し、新聞社側も猛反発です。
「美貌は婦人の一徳で、好ましいばかりか尊ぶべきこと」とし、「日本一の美人に選ばれるのは本人のみならず末弘家にとっても光栄なことであり、手塩にかけて育てた愛娘の美を発揮しようと応募するのは人情、それを虚栄というのは、「没分暁(ぼつぶんぎょう)の極み」(ものわかりが悪い)。また「学習院から日本一の美人を出したこと自体、学校にとっても名誉なことであるはずで、もしヒロ子嬢を処分するようなことになれば、本末転倒の行為である。近衛兵に日本一偉大なる体格の兵がいるのと同じであり、むしろ、集栄を集めた点で誇るべきこと。」と力説します。
乃木院長が軍人だからでしょう。近衛兵が例えに出て来るところが面白いではありませんか。でも、「集栄を集めた」とあるのは誤植でしょうね。このままですと「馬から落ちて落馬して」のような重言(じゅうごん)になってしまいそうです。
こうして、あどけなさの残る純真な少女は、1等にアタッタことにより、希望にあふれていたであろう自らの進路をはばまれてしまったのですが、その後、乃木将軍が、野津元帥の子息にヒロ子を紹介、嫁がせたということも資料に載っています。
この後始末も釈然としませんが、私は彼女が幸せな一生を送ったと思うことにしています。
いま「澤乃井・櫛かんざし美術館」では、秋の展示の一郭に、ヒロ子嬢をはじめ、入選者の写真を展示しています。いずれも品位のある理知的な美女達です。
ちょっとはにかんだようなヒロ子嬢の写真も、当時、女学生の間に流行ったマーガレットの髪形に大きなリボンをつけ、ひときわチャーミングに見えます。彼女は、世界の中で6等賞に選ばれたとのことです。
その後、どんな生涯を送られたか記録はありませんが、激浪のあと、おだやかな日々の訪れがあったことと念じつつ、私は、いま、ヒロ子嬢と親しく対面しています。

今回は、明治40年(1907)日清・日露戦争の結果、日本が列強の仲間入りを果たした後、16歳の深窓の令嬢が遭遇したある事件についてのお話です。

この話は今年、創立10年を迎えた「澤乃井・櫛かんざし美術館」の蔵書の中から偶然見つけた資料によります。

明治40年、アメリカの新聞社シカゴ・トリビューン紙が世界の美人選びを企画して、日本にも参加を要請してきました。それに応えたのが福澤諭吉翁(1835~1901)が明治15年(1882)に発足させた新聞社「時事新報社」でした。

時事新報社は日本の新聞社22社に呼びかけると同時に、コンクールの応募締め切りまで、毎日のように広告や論説を載せました。

世論は盛り上がり、東京市内の有名写真館が応募用の写真撮影代を通常の半額に割り引くことを申し出たのをはじめとして、化粧品会社等の多くのスポンサーが続々と参加協賛を発表し、提供賞品の総額は3、000円にも達したと記述されています。(当時の3,000円がどれほどの価値であったのかは後ほど述べますが・・・‥)審査の方法としては、先ずその年に集まった全応募写真約7,000枚の中から第一次として214名の各県代表が選出されました。

当時のことですから写真はモノクロで、身長もスリーサイズの記載もありません。アップの顔写真です。

そして翌年、第二次審査が時事新報本社で行われ、全国1等から12等まで選ばれました。(「位」ではなく「等」というところが面白く、往時をしのばせます。)

審査員は下記の通りでした。

洋画の岡田三郎助。日本画の島崎柳塢。写真学者の大築千里。女形の河合武雄・中村芝翫。美術鑑識家の高橋義雄。彫塑家の高村光雲・新海竹太郎。人類学者の坪井正五郎。写真技師の前川謙三。容貌研究家の前田不二三。医者の三宅秀・三島道良。

と、女性が一人もいないのも口惜しいことで、私は『源氏物語』の「雨夜の品さだめ」を思い浮かべてしまいました。

ちなみに、賞品は・・・‥

1等 18金ダイヤモンド指輪(価300円)

2等 18金梨地無双ダイヤ入懐中時計及び18金ルビー真珠入首掛鎖(150円)

3等 18金白金製桜に流水透彫ダイヤ帯留(100円)

となっています。

偶然かどうか(意図してかどうか)、このダイヤモンドの指輪の300円というのは、例の『金色夜叉』で、お宮が貫一をうらぎったダイヤと同額です。尾崎紅葉が、この小説を発表したのは明治30年のこと。

ものの本によれば、明治30年、小学校の教員の初任給は8円です。巡査のそれは9円。明治39年には日露の戦時インフレで12円になったとあります。300円を12で割ると・・・25。つまりは巡査25人分の初任給を合わせた額。

また、各県代表に選ばれた美女達にも、それぞれ宝石入りのアクセサリーが贈られ、美女を推薦した人達にも1等から3等まで、50円から10円が贈呈されるという豪華さでした。

何故そんなにまで力を入れたのか・・・‥その理由としては、女性の健全な品格ある社会進出の一助に、ひいては、社会全体の近代化のためにという、新聞社側の強い思い入れがあったればこそ、と考えられます。

当時、日本では、写真が普及しつつあったとはいえ、世間の眼に触れるのは浮世絵の伝統を多分に受けついでいる遊女や芸者の写真のみだったようです。

上流階級の女性の写真が一般に出まわって、鑑賞の対象になることなどは皆無に等しく、ましてや、自ら写真のモデルになるというようなことは、実に、はしたないことと思われていたのが、当時の風潮です。

新聞社側にとっては、こうした状況を打破しなければ、と、広告や論説によって、その主旨の徹底化に努めたという次第なのでしょう。

今だったら、明るく、華やかな話題として、万人に何の問題も無く受け入れられるとしか思えませんが、当時は、社会倫理をくつがえすようなことで、反発や抵抗も強かったようです。

この事実は私の言葉で述べるよりも、当時の新聞記事をそのままお伝えするほうが、その時代の空気の密度を肌で感じとっていただけると思いますので、少し長くなりますが引用いたしましょう。

当選者写真集『日本美人帖』(明治41年)の趣意書の中にある一文の紹介です。『日本美人帖』というタイトルからして時代ものですね。

そこでは先ず、「元来過度の謙譲抑損(よくそん)を以て唯一の婦徳と誤信せる我邦の風習と相容れざる点ありて、募集者の困難は、殆んど名状すべからざるものありしかど・・・‥」と嘆き、さらには、「此帖載(ちょうさい)する所は、悉く良家淑女の真影にして、いやしくも容色を以て職業の資となすが如き品下がれる者に非ざるが故に、観る者は相応の礼意を以て之に臨み、彼の坊間(ぼうかん)に有りふれたる醜業者の写真と同様に心得ざるようありたし」と懇ろな念押しをしています。今から100年前のことです。

この『美人帖』の巻頭を飾ったのは「厳正なる審査の結果」選ばれた全国1等の、末弘ヒロ子(福岡県代表・16歳、女子学習院中等部2年)でした。

彼女を推挙したのは、姉の夫、義兄にあたる人で、かわいい妹を自慢するつもりで本人にも家族にも無断で送ったものでした。

あとで知らされたヒロ子が、泣いて抗議、「もし3等にでもアタッタリしたら、学校で叱られます。どうか取り戻して下さい。」などと言っているうちに3等どころか1等にアタッてしまい、当然学校でも大評判になってしまいました。

それからが大変です。院長の乃木希典将軍が新聞に意見を発表します。

「女子部にありては、軽佻浮薄の弊を戒むるに努め居れるが、先頃某新聞社が美人写真募集せしみぎり、2年末広ヒロ子が1等と発表せられしに至れり。良妻賢母を育てる教育方針のなかで自分の容姿を誇示することは、生徒としてあるまじき行為」と決めつけ、「他の生徒の取締上停学又は諭旨退学に処す。」

そこで汚名を晴らそうと、父親や義兄が上京、院長に説明、嘆願しましたが、結局自主退学となり、勉学なかば、友達とも別れ、何の罪もないヒロ子は国元へ帰ることになりました。

これに対し、新聞社側も猛反発です。

「美貌は婦人の一徳で、好ましいばかりか尊ぶべきこと」とし、「日本一の美人に選ばれるのは本人のみならず末弘家にとっても光栄なことであり、手塩にかけて育てた愛娘の美を発揮しようと応募するのは人情、それを虚栄というのは、「没分暁(ぼつぶんぎょう)の極み」(ものわかりが悪い)。また「学習院から日本一の美人を出したこと自体、学校にとっても名誉なことであるはずで、もしヒロ子嬢を処分するようなことになれば、本末転倒の行為である。近衛兵に日本一偉大なる体格の兵がいるのと同じであり、むしろ、集栄を集めた点で誇るべきこと。」と力説します。

乃木院長が軍人だからでしょう。近衛兵が例えに出て来るところが面白いではありませんか。でも、「集栄を集めた」とあるのは誤植でしょうね。このままですと「馬から落ちて落馬して」のような重言(じゅうごん)になってしまいそうです。

こうして、あどけなさの残る純真な少女は、1等にアタッタことにより、希望にあふれていたであろう自らの進路をはばまれてしまったのですが、その後、乃木将軍が、野津元帥の子息にヒロ子を紹介、嫁がせたということも資料に載っています。

この後始末も釈然としませんが、私は彼女が幸せな一生を送ったと思うことにしています。

いま「澤乃井・櫛かんざし美術館」では、秋の展示の一郭に、ヒロ子嬢をはじめ、入選者の写真を展示しています。いずれも品位のある理知的な美女達です。

ちょっとはにかんだようなヒロ子嬢の写真も、当時、女学生の間に流行ったマーガレットの髪形に大きなリボンをつけ、ひときわチャーミングに見えます。彼女は、世界の中で6等賞に選ばれたとのことです。

その後、どんな生涯を送られたか記録はありませんが、激浪のあと、おだやかな日々の訪れがあったことと念じつつ、私は、いま、ヒロ子嬢と親しく対面しています。

全国1等 末広ヒロ子16歳 (福岡県小倉市室町 末広直方4女)

全国1等 末広ヒロ子16歳 (福岡県小倉市室町 末広直方4女)

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