たかが櫛されど奇し

仕込唄の聞こえた頃-2

澤乃井・小澤酒造は高水三山(たかみずさんざん)の麓、多摩川のほとりに在り、最寄りの無人駅、JR青梅線沢井駅とは地続きです。

この駅舎の屋根には、あのとんがりの「相輪」が建っています。
子供達のよく言う、てっぺんの角(つの)です。対岸の小寺、寒山寺(昭和5年落慶)を模して造られているのです。
中国の古寺に由来するこの寒山寺については、いずれまたの機会にお話し致しましょう。

振り返ってその昔、私が嫁いで来た当時の小澤酒造には、本宅と呼ばれる母屋をぐるりと囲んで、酒蔵(さかぐら)、雑蔵(ぞうぐら)、穀蔵(こくぐら)、精米所、桶屋の細工部屋、瓶詰場と立ち並び、酒蔵の入り口には番頭が坐る帳場がありました。

帳場にあるのは大きな算盤と帳面と煎餅座布団。私はここで帳場格子というものを初めて見ました。机を囲って立てる折りたたみ式の低い格子です。この中で働く番頭さんは一心そのものでした。

また、その人は毎朝6時に出勤して、住込みの男衆達と一緒に朝・昼・夕と食事を共にし、お風呂にまで入って夜10時に帰宅するという生活でした。

きびしい仕事の中でも、私には折にふれて優しい言葉をかけてくれたり、何もわからない私がまわりから叱られないように、そっと教えてくれたりした人でした。

帳場と通路を挟んで向こう側には蔵人(くらびと)達がそれぞれの箱膳を並べて食事をする炬燵のある部屋がありました。この炬燵は2畳敷もあろうかという大きなもので、毎朝1俵分の炭が埋められて、一日中温まれました。

その前方には、地下に焚き口のある大釜が二つ。蔵人の中で最も早く、午前2時起きの釜屋が水を張り、石炭をシャベルで投入し、米のふかしが終わっても一日中湯が沸いていて、洗い物用に手桶を下げて女衆が貰いに行ったものです。

その奥に貯蔵庫と、醪(もろみ)をしぼる酒槽(さかぶね)が二基据えられた槽場(ふなば)が続き、さらにその奥はほの暗い仕込蔵で、二階は麹室(こうじむろ)です。

このあたりへ来ると、酒の香が充ち満ちていて、弱い人は酔ってしまう程でした。懐かしい想いがします。

女は酒造りには携わりませんが、麹の上を掩うキルティング風の綿布や、仕込みに使う麻布や酒袋の破れを繕ったりする仕事をはじめ、炬燵布団から寝具のことまで、布に関する作業はすべて、しかも沢山、廻って来ました。

そんな場合、いつも下の者ではなく律儀にも親方が母屋へ頼みに来たのでした。私達は米や麹の匂いの浸みた布の山を受け取る時、一緒に酒を造っているという嬉しさを感じることができました。

母屋の陽のあたる縁側に並んで繕い物をしている時、「お雛さまみたい」とお手伝いさん達と笑い合ったりしたのも楽しい想い出です。

酒蔵の裏には現在も仕込水の湧く洞窟(横井戸)があります。湧水はいわゆる多摩川の伏流水ではなく、高水山(たかみずさん)の岩盤で漉された岩清水です。創業時代からのものを明治に入ってからさらに掘削、延長したもので、現在100メートル以上の奥行きがあります。

井戸の上の裏山には、八幡様、水神様、お稲荷さんの祠が建っていて、物日にはそれぞれにお神酒や、さつま芋の入った「きびおこわ」が供えられます。

こういう古い家ですから、さぞかし古文書なども残っていると思われるでしょうが、不思議な事に、家系に関するものは一つもありません。酒を造っていたとわかる元禄15年のものがありますが、それ以前のものも、それに続く文書もありません。これをもって創業元禄15年ということになっています。

それでは過去帳には・・・と調べても、菩提寺が火事に遭ったとかで新しく作られたもの。ただ位牌に「武田・小澤両姓」とあるのは曰くあり気です。

そうなのです。
我が家のルーツは武田家です。
昭和29年に長男が生まれた時、姑に聞かされた話は「ここの家では男の子が生まれても鯉のぼりは立ててはいけないと言われている。それは信長の残党狩はとてもきびしく、跡継ぎが生まれた、と知れたらすぐ殺されてしまうからネ。」というものでした。

あの三河万歳というのは信長のスパイで、家々を廻りながら探っていたのだ、とも聞きました。

一挙に戦国時代に戻ったような話ですが、当時の武田の残党は、甲州から柳沢峠を越え、多摩川の下流の各地へ点々と辿りつき、名字を変え、連絡もとらず、家系図も焼き、ひっそりと息をひそめて暮らしていたらしいですね。

やがて信長も討たれ、徳川の世になり武田家再興の夢も消え、金山奉行だったご先祖が軍資金を基に今でいう地域開発や、もろもろの事業を始めたのだろうという事ですが、これも憶測や語り伝えの域を出ません。

ただ、現在も仕込水が湧く「岩盤を横にくり貫いた井戸」は、鉱山の堀り方であり、水汲み用の井戸ではないというところに、歴史の痕跡があると見られます。もう一ケ所、対岸の櫛かんざし美術館の地下にも洞穴があり地名も金山(かなやま)と言い、何度か宝探しもやったようですが、何一つ出て来なかったという事です。

さて、こんな武田の残党の家に嫁いで来た私のルーツは尾州藩織田家の家臣(武士ではない)です。旧敵のご先祖達を思い出す事もありますが特に気にはなりません。

ところで、ここで頭に浮かんで来ます事は、同じ敗軍でも残党といえば再起を計る執念も感じますが、落人といえば風雅隠棲の趣があるという事です。

しかし、どうでしょう。武田の残党の商売のやり方には、その両方が混在しているように思えるのです。何事かを成し遂げようとする内なるパワー(バイタリテイー)や、ご先祖に束縛されない逞しい、残党らしい自由な発想。

そして、それとは違う世離れした落人的な、風流・雅趣の遊びごころ。つまりは剛と優。
現在は小澤酒造の会長として日々を楽しく遊んでいる私の主人は元来、この青梅地方にはびこる「おへんなし」の代表格。「おへんなし」は「お変な衆」。「変わった人」「遊趣好みの人」「物好きな人」といった意味の土地言葉です。

この何十年間で澤乃井の酒の味が変わった。旨くなった。武骨一辺倒ではなくなった。洗練されて来たようだ。などと、お酒にうるさい方々にも認めていただけるようになったのも、この「おへんなし」を育む硬と軟とが入り交る武田残党流のDNAのおかげ、かも知れません。ファンの皆様のご支援にも厚くお礼申しあげます。

「酔っぱらえれば何でもいい」という戦後もはるか、この豊か過ぎるほどの食味の時代に、如何に酒の神髄を残しつつ時代に取り残されないようにしていくか、後を継いだ長男もいろいろ苦労も多いようですが、私には忘れられない想い出があります。

長男が高校一年の時でした。
学校から帰って来ると、涙を浮かべて私に訴えます。「学校で将来の希望は?と聞かれ、友達はみんな『何になりたい、あれをやりたい』って言うけれど、どうして僕だけ生まれた時から酒屋になると決まってるんだ」と。制服をきちんと着て立っている我が子に対して、ここは本音を言わなければ・・・と私は覚悟をきめて答えました。

「順ちゃんは酒屋を継がなくちゃならないっていう事はないのよ。自分の人生なんだからネ。だけどネ、この家は300年以上も続いてるけど、これ迄の歴史を見ると、この酒屋造の主人になった人の中には、自分のやりたい事をあきらめたり、好きな女の子との結婚を見合わせたりした人も、いっぱいいたと思うのよ。それでも、その人達は、なぜ黙ってお酒を造り続けて来たのか、それを良く考えてごらん。そんなご先祖の生き方の重さを超える情熱と意志が持てるような仕事が見つかったら、それをやりなさい。」

内心はビクビクです。
主人に「そんな事を言っていいのか」と叱られもしました。
しかし、3ケ月後、長男が申しました。

「お母さん、僕、酒屋をやるよ。僕は幸せだと思う。」

正直なところ、お産のあとよりホッとしました。
その時感じた少年時代の息子への尊敬と感謝は今も続いています。新しいお酒ができる度、売れる度、その想いを重ねています。

酒は世につれ、これからどのように変わっていくのかわかりませんが、米作りから始まって、こんなに多くの人々の情念がこもったものが、ほかにあるでしょうか? 日本酒よ永遠なれ、です。

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