たかが櫛されど奇し

青梅(おうめ)のうめ

三月になりました。
東京の国立公園と呼ばれる青梅市の郊外・吉野梅郷も日毎に賑わって来ます。
多摩川に沿って東西4キロメートルに広がり、およそ2万5千本の梅を数えるこの吉野梅郷の中に「青梅市・梅の公園」があります。

昭和47年、市によって整備された「梅の公園」は、なだらかな山の斜面を活用したことで、その眺めが一段と良く、多くの人々に親しまれるようになりました。 120種・1500本が次ぎ次ぎとほころび、紅・白・ピンクと春色に彩られた山の景色は仲々見事なものです。昨年は新聞の人気投票で、最も写真撮影に向いた梅の名所として、一位にランクされました。うれしく思いましたが、お客様をご案内する時以外、近くなのに自分から行こうとは思わない場所でもあります。

私には、どうしても昔の、一軒一軒の家の庭や畑に丁寧に植えられた素朴な梅林の想い出が強くて、現在の「これはこれはとばかり梅の吉野村」という華々しさは、成人式の娘さん集団みたいで、年寄には一寸明るすぎます。

探梅という言葉が大好きです。
この頃のように、テレビの情報やインターネットで最盛期を調べ、ごった返しの中で梅を眺めるのではなく、「今日あたり、そろそろ」と見当をつけ、青梅線に乗ってトコトコ、辿りついたら、香りはすれど姿は見えず、「ああ、まだ早かった・・・・・」という感じがいいのです。

それでも、少しぬくみ始めた村の小径を気の向くままに歩き、農家の縁側から声をかけられ、渋茶を振舞われ、「どうぞ、どうぞ、これは三年前の梅干しで・・・・・」とすすめられたり、このあたりでは、こうして芋の煮っ転がしやお新香のたぐいを、手皿といって客の掌をひろげさせて、のせたりしたものです。内心かなり困ったのですが、やはり、なんとも言えない温かい善意が伝わって来て・・・・・。なつかしい早春の一日でしたね。

もともと観賞用の梅ではなく、農家の副業として、梅干し用に栽培されていたものです。そのため、古木でも梅の実が採りやすいように樹形を低くし、枝が広がるように剪定されています。桜とは違って、人と等身大に見えるところが、親しみやすさを増すもとになっているといった感じもします。近づいて匂いをかいだりして・・・・・。

戦後、豊かな世の中になり、そんな梅畑が少しずつ消えて行き、しばらくすると、建売住宅がびっしりと建ち、ぽくぽく歩いた野径も舗装され、車の往来も繁くなりました。

世の中、すべてそんな調子で、相続による畑の消滅や、新住民から寄せられる消毒薬の散布に対する苦情が多くて、梅栽培をやめてしまったりと、人間の暮らしの利便性追求の結果、失ったものの多さに驚きます。

ただ、うれしかったのは、もと東京芸術大学の学長であり、陶芸家として人間国宝の藤本能道先生が、昭和48年、54歳の折、この梅郷に築窯された事。

そしてその後、この梅林で伐られた梅の木灰から「梅白釉」と名付けられた釉薬を開発されて、色絵の作品を完成なさった事です。

先生の作品の色合いから、その木灰は紅梅の樹から作られたものだという話が広まりましたが、それは眉唾ものらしいですね。

しかし「紅梅の 紅の通へる 幹ならん」という虚子の句もあることです。
枝の芯まで紅い紅梅の樹が藤本先生によって生まれ変わり、名作を生み出す釉薬になった・・・・・という話は現代の神話として受けとめても良いようにも思えます。

ところで、青梅とい地名はご存じでしょうが、市内・天ヶ瀬の真言宗豊山派の名刹・金剛寺にある老木「平将門誓いの梅」に由来するようです。

その事について「新編武蔵風土記稿」によれば、戦いに破れてこの地に逃れて来た平将門が、梅の枝を一本、地面にさして「願いが叶うのなら芽をふけよ、叶わぬのなら枯れよ」と唱えたところ、梅は育ち、毎年、実は生って、その実はいつまでも青々として、夏を過ぎても落ちようとしない・・・・・。土地の人は驚き、尊び、地名にまでなった。とのこと。

安永二年(1773)、青梅・森下に生まれた山田早苗は、幼い頃から親しんだ多摩川の各地を歩き、その紀行文を「玉川泝源(そげん)日記」としてまとめました。今日に残る多摩川研究の貴重な資料です。それには次ぎのように記されています。

金剛寺縁起
そもそも金剛寺は朱雀天皇御宇・承平年間、平将門、下総国相馬に在りて、当国に来たりて霊場を占って、梅一枝をさされたるに枝葉繁茂す。因って、この地に一刹を創建せり。京、北野蓮台寺の寛空僧正を開山に請ぜられけるに、辞して弘法大師の像を本尊に安んじて、無量寿院金剛寺と号せり。挿せし梅、実を結びて冬まで熟せず、青色也。故に青梅山と称し、その地を青梅邑と云。什宝に園城寺智証大師の筆「十方正面白不動尊」の画像一軸あり、軸中に金色の仏舎利を籠めありとぞ。又「如意輪観世音」聖徳太子筆にて、自歯を軸中に籠めあり。    以下、略

その他、将門伝説は、関東の各地と同様に青梅・奥多摩にも数多く残っていますが、はっきりした史実があるわけではありません。青梅市に在住された吉川英治氏の「平の将門」、海音寺長五郎氏の「平将門」など小説にもなっていますが、いずれも茨城、千葉方面を舞台にしています。

将門が武蔵国へ来たと推定されるのは、承平8年(938)の武蔵竹芝事件(武蔵国府への介入)と天慶2年(939)の関東巡検の時であろうといわれています。

もともと、将門は千年以上も前の武将であり、史実はとかく勝者の理論で残されやすいものなので、肉親間の争いが原因で、讒言され反逆者となり、その後、明治以降の皇国史観により逆賊として討伐されることになってしまった将門ですが、ここまで各地に将門ゆかりの寺社が存在するのは、当時の怨霊封じもあるでしょうが、民衆の間に同情の想があったのだと思われます。

怨霊と言えば「こちふかば にほいおこせよ むめのはな・・・・・」の菅原道真公を想起される方も少なくないでしょう。「配所に果てし公あはれ」。梅は学問の神さまをしのぶのにふさわしい高雅な花木です。

青梅へ観梅においでになりましたら、おすすめしたいのが成木(なりき)の安楽寺と根ヶ布(ねかぶ)の天寧寺です。。将門ゆかりの古寺で、とても風趣のあるお寺です。将門が関東巡検の折、武蔵国から相模国まで行った時の、鎌倉街道・山の道の道沿いにあります。

私の祖父、日本画家の川合玉堂は、桜よりも梅を好んで描きましたが、御岳の玉堂美術館でも、3月22日(日)まで、名作「紅白梅六曲一双金屏風」が展示されています。

雄渾な老木の紅梅、端麗な若木の白梅が描かれ、幹はたらしこみ(墨や絵の具がまだ乾かないうちに他の色をたらし、色のにじみによって独特の色彩効果を出す描法。琳派がよく用いた。)が非常に効果的で、点々と咲く梅花や蕾のすっきりした花容がとりわけ際立って見えます。

多分に、光琳の国宝「紅白梅屏風」を意識しているように思いますが、玉堂の精神性が強く感じられる作品です。玉堂は、梅を描く時の心得として、「桜は満開がよろしいが、梅は一寸さびしいかな?と思う位、花数を少なく描くと梅の気品が表現できる」とお弟子達に教えたそうです。

ちなみに梅の花言葉は「気品」。

玉堂美術館で、来館者の方に、そんなお話をしていましたら、昨年、年輩の男性の方が、「実は梅の公園で満開の梅の写真を撮って来ました。お話を聞いて、今日の最後に、この入り口の梅を撮して行きます」とニッコリされました。日当たりに一寸恵まれない細い白梅です。

私にとって清々しい一日となりました。

※この内容は2012年に公開されたものです。

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