UPDATE:2024.06.06
鴛鴦(えんおう)の契り
緑も重たく、つゆじめりの頃となりました。
この6月30日は、祖父・川合玉堂の命日にあたります。
昭和32年の2月、心臓発作を起こし、自宅で医師の往診を受けながら病臥していました。初めのうちは、再起してまた絵を描きたいと思っているのが察せられましたが、6月に入ると実に淡々として、静かな境地に達したように見えました。
いよいよ、となった頃、(生前、玉堂は何枚もの『船出』を描きましたが)枕頭には絶筆となった最終の『船出』が立てかけてありました。
某日、玉堂はまわりの者に「この絵は、お世話になったK先生に差し上げたいが、落款がまだだから起こしておくれ」と言い、2,3人で扶け起こし落款を入れた所へ、当のK医師が入室され、驚いて「先生、何をなさっているんです。落款? とんでもない、絶対安静ですよ」と叱られました。
玉堂、慌てず騒がず、いつもの笑顔で「ああ落款(楽観)も出来ないなんて、私もいよい終わりだな」と得意のジョーク。まわりはどんな顔をしていいやら・・・・・・。多分、その頃は玉堂は何の未練もなく「あの世へ行っても描くぞ」と楽しみにしていたのではないか、とさえ思えます。
本当に素晴らしい一生でした。
生前「私には絵があるから、お墓はいらないよ」と言っていましたので、多摩墓地にある玉堂の両親のお墓に埋葬されました。隣には、丸い形の祖母とみ(玉堂の妻)のお墓があります。
今回は私の大好きな、とみお祖母さんのお話をしましょう。
お祖母さんは、いかにも明治の女性らしく、常に夫に寄り添い、ひたすら仕えた愛らしく小柄な人でした。
しかし、それでいて芯が強く、あの癇癪持ちで、いつも絵の事しか念頭にない夫の我がままに、よく応え、よく耐えていました。
三男一女の子育てはもとより、名声が上がるにつれて増え続ける来客への気配りと接待。加えて、大勢の塾生達の世話など、すべてを黙黙としてこなし切りました。
不平、不満、愚痴、泣きごとを、一切口にしなかった人でもあります。
考えてみれば、二人の結び付きも変わっています。
生まれる前からのいいなづけだったのです。玉堂は、その父親が50歳近く、母親が30歳と、当時としては、大変な遅い子持ちでしたので、両親の愛情も殊に深く、子の将来に対する不安も大変なものがありました。
こんな両親の相談を受けて、親類筋の岐阜の大洞家の当主が「そんなに心配なら、そこで這い這いをしているこの娘をいいなづけにしておけばよい」と安心させ、父母も大喜びをしたのも束の間、この赤ちゃんが夭逝してしまいました。
両親は「嫁が死んだ」と肩を落としましたが、大洞家「今また、うちのがお腹を大きくしているから、生まれたのが女の子だったら、その子にすればよい」と犬の仔でも貰うような話です。無事、自らの運命も知らずに生まれて来た女の子は、「とみ」と名づけられ、嫌も応もなく、いいなづけとなってその後、70年近くも共に暮らしたのです。
その後、一介の貧乏絵描きから、大家となった夫に仕えて、どれ程の心労と忍耐があったか、また、祖母自身も、夫にふさわしい妻としてどんな勉強をしたか、おそらく並々ならぬものがあったに違いありませんが、祖母の口から一度も聞いたことがありません。
世に語られるのは、夫の偉大さばかり。
祖父にしても、老妻の事を気にかけはじめたのは、本当に晩年になってからだと思います。
老妻の 猫にもの言ふ 夜寒かな
寒気の身にしみる山家の夜。ふと気がつくと、長年、連れ添って来てくれた、年老いて耳も遠くなり、小さくしぼんでしまった妻が、返事をしてくれるでもない猫に語りかけている姿。
思えば、おんば日傘で、きょうだい一緒に育った娘を、17歳でめとり、故郷を離れ、京都、東京と絵の道を求めて引きずり廻し、あらゆる雑事や苦労を押しつけて来た妻。
その妻に対して今、湧きあがる哀憐の情。この一句にこめた玉堂の思いは十分に掬す事が出来ます。
また、こんな句もあります。
栗南瓜 老婆に好かれ あはれなり
祖母は南瓜が好きでした。
祖父や父は「女の好きなものは、芋、蛸、南瓜」と馬鹿にしていましたが、女の私にはよく分かるのです。食料品店もない田舎。お客様は都内からお昼頃になると、ぞくぞくとご到着。さあお食事、となっても、男は、自分の見栄ばかりにこだわり、まずまずのおもてなしが出来ない事には大層ご機嫌が悪くなるものなのです。
そんな時、頼みの綱。たのもしいのは南瓜です。また祖母は、料亭のご主人に教わった京風の煮物も大変上手で、南瓜は立派なお菜になったのです。
祖父が亡くなって、もう食事やお客様の心配をしなくてもよくなっても、祖母は引き売りの八百屋さんが来ると、私の母にいつも「南瓜を買ってお置きなさいよ。南瓜はいいですよ。いつでも間に合いますからね」と言って、何個も買いこんだものでした。祖母の部屋には、南瓜が絶えずゴロゴロしていたのを覚えています。
南瓜を愛さねばならなかった老婆のあわれは、男には分からない事だったのでしょう。
祖父の死後、人の出入りもなくなり、静かになった或る日、父が祖母の部屋へ行くと、祖母が畳の上にころん、と転がっていました。父が驚いて声をかけると「わたしは、生まれて初めて、うたたねというものをしてみたよ」と、きまり悪そうな顔で起き上がったそうです。
「僕は、お祖母様が、かわいそうだと今になって思ったよ」などと言っていましたが、父もかなりの親不孝者でした。
そんな祖母も、四年後、南瓜に囲まれて祖父のもとへ旅立ちました。
祖父最晩年の作に『鴛鴦』があります。
冷たい岸壁の下に5,6本の枯葦が見え、狭い岸辺に寄り添ったおしどり二羽が胸にぬくもりを抱いて、うずくまっています。音もない荒涼とした自然の中、羽のいろどりだけに生命が凝縮しているかのような、寂しくも温かい絵です。
父が後に「この絵は自分達夫婦の姿なんだろう」とポツンと言った言葉が、今も心に残っています。
最後の最後になって、二人だけになって、この情愛こもる夫婦の姿を、よくぞ祖母のために、祖父は描いてくれました。
猫にもの言う老妻に、ふと眼を向けた瞬間から、この絵を遺そうと決めていたのかも知れません。その一ヶ月後に倒れて二度と起たなかった祖父が最後に、祖母に贈った一枚でした。
※この内容は2012年に公開されたものです。