UPDATE:2024.10.10
たかが櫛 されど奇し
櫛かんざし美術館のおかげで、私が初めて知ったさまざまなことを前回に続いてお話し致します。
櫛に関する興味深い事柄は、神代からの伝承に多々盛り込まれていますけれど、今回は主に江戸時代の髪飾りについてとり上げようと思います。
様々な日本髪の出現に伴って誕生開花した髪飾りからは、美術工芸品としての価値は勿論ですが、鎖国時代の日本の政治、経済、文化の歴史がまざまざと浮かんで来ます。
この江戸期を述べる前に少々お話致しますと・・・・・先ず古代の日本女性の髪形は、麻紐などで根元をしばり、上部でまとめたもののようで、出土した「はにわ」も嶋田髪風に結って、縦型の竹櫛を挿しています。
奈良時代になると、唐文化が尊ばれ、衣裳、髪形、装飾品もすべて、唐風になり、光明皇后のお姿や天女像に見られるような感じです。簪(かんざし)は、もともと魔除けの意味で、花の枝を髪に挿し、挿花枝(かざし)と稱していたのが始まりとか。またこの頃から見られる笄(こうがい)は、長い髪を巻きつけてまとめるための棒状の道具です。
その後、藤原時代には遣唐使も廃止され、菅原道真等の国風回帰の風潮により、風俗も一変、上流女子の髪形は長い垂髪となり、飾りの全くない時代が到来し、戦国時代を経て江戸初期まで700年も続きました。
そして江戸中期。平和、鎖国、武士の衰退による、濃密、繚乱たる文化が花開きました。
1603年、出雲の阿国(おくに)が京都で上演した歌舞伎も、婦女の憧れの的になり、男髷に結った装いは、いち早く遊郭や茶屋の女性が真似するところとなりました。それが浮世絵に描かれて次々に発表され、ファッションブックさながらに、衣裳は勿論、この髪形を、あの櫛を、と世にひろまりました。地方へも参勤交代の武士達が持ち帰り、また、お伊勢参りのお土産としても、この風俗は次第に各地へ浸透していきました。
当時、「髪結」は男の職業でしたが、男に髪を触らせるのは禁忌であった時代のため、「女髪結」が誕生して、複雑な日本髪をプロとして手際よくまとめるようになりました。「女髪結」で思い出されるのは、あの落語『うまや火事』のおさきさんですよね。
髪形は、モデルの顔容に合わせて「女髪結」がそれぞれに工夫をこらすことによって、さまざまなものが出来てゆきましたが、基本的なバランスとしては、前髪が高ければ、鬢(びん・横髪)は平らに。低ければ横に大きく張るといった按配でした。髱(たぼ)も、短くて太いのやら、細くて長いの(せきれいたぼ)やらといろいろなバリエーションが生まれました。歌麿の浮世絵によってこうした形がよく見え、よく分かるのはうれしいことです。
その髪形をつくり整えるために、「元結(もとゆい)」という細い紐が使われましたが、その結び目や分け目などをかくす為もあって、飾り櫛、簪、笄を何枚も何本も挿しました。「手がら」など細かい装飾用具も増え続けました。「もとゆい」は「もっとい」とも呼ばれますね。落語の『文七元結(ぶんしちもっとい)』です。
櫛や簪の材質も、つげ等の木をはじめ、べっこう、珊瑚、象牙、金属、ガラス等々と多彩であり、かつ、貿易の許されていた長崎から入って来る、いわゆる舶来高級品が惜しげもなく使われました。
工芸技術も極めて高く、百花繚乱。武士の刀剣類の仕事が激減したこの時代、蒔絵、彫刻、象眼(ぞうがん)の職人達が、抱一や北斎等の名画工がものした図案集を基に鋭意制作。今見てもその贅沢さは別格です。製造、流通、宣伝といった経済社会も、後の産業革命に通ずる基礎が出来つつあったのでしょう。
そして、日本人の特質が最も良く表れていると感じられるのは、四季への感覚の鋭さと愛情です。衣裳は勿論、櫛や簪にも、花鳥風月が描かれていることが、なつかしくも誇りに思えます。ところで、あの「日本髪」といわれる複雑で多種多様な髪が何故この時代に結われるようになったのでしょうか。
徳川時代の平和な暮らしの行きつく所、というのが大掴みの結論でしょう。
性倒錯、奢侈遊興、流行への欲望が横溢した時代です。学問や遊芸の道も広く深く浸透し、櫛にも、古典文学や説話や能を題にしたものが多く見られます。現代のアクセサリーと違う点ですね。
しかし、どのようにお洒落が流行っても、封建時代のこと。大奥、武士、町人、水商売などという地位・身分の差や未婚、既婚という区別は厳然として存在していて、それを侵すことは出来ませんでした。
大奥では、将軍が京の公家方から奥方を迎えると、お供の女官が帯同し、公家風俗と武家風俗が入り混じった独特のファッションが生まれました。
テレビドラマの「大奥」や「篤姫」でご承知のことと思います。櫛や簪などは、べっこう製で、その意匠も凝ったものでした。
一方、お大名の奥方はじめ武家方では、材質こそ高級でしたが、デザイン的には家紋を大きく入れるだけといったような単純な物を身につけています。
また、私達が今、七五三や花嫁のアクセサリーとして認識している筥迫(はこせこ)は、懐紙や化粧道具を入れる武家女性のみのお道具でした。町人はどんなにお金持ちでも、鏡入、紙入という薄く小さめの袋物を使いました。
これと同じような位置にあるのが、男性の印籠(いんろう)です。家紋入のものは登城の際、壁にそれぞれ掛けて、◯◯公ご出仕と分かる、今のタイムカードのような役割を果たしていましたし、水戸のご老公様のように、身分証明書みたいなものでもありました。
身分のある殿方も吉原などの遊里へ出かけられる時は、贅沢で趣味的な印籠で、いわゆるお忍び用と公儀用は別だったようです。
下々の女達は、版を重ねるベストセラー『女子風俗化粧伝・上中下(文化10年・1813年以降)』を廻し読みして、『額の生え際の悪い人は・・・・・。色の黒い人は・・・・・。鼻のペチャンコの人は・・・・・。』と、難(なん)かくしのお化粧法を学び、皆美人になりました。
時、あたかもご禁制ばやりの世の中。繰り返し出された奢侈禁止令も、時々、スケープゴートを差し出し、お役人様も、職人を助ける為と稱して、「贅沢な髪飾りは禁ずるが、耳掻きを挿すのはお構いなし」とお布礼を出して下さったので、それ以後、簪に耳掻きは付きものになりました。後に、「日本人の耳は象の耳なのか?」と外国人が驚いたという程、大きいべっこうの耳掻きが付いたのも沢山あります。
しかし、当館(澤乃井・櫛かんざし美術館)においでになる若い方々の中には、それが耳掻きを模したものとは分からずに、展示品を見て通る方も少なくないようです。ご説明のプレートは立ててあるのですが・・・・・。もっともなことです。
さて、お話を戻せば・・・・・やがて、動乱の幕末を経て、文明開化となり、保守的なように見えて新しいものにすぐ飛びつく日本人。洋式文化によって頭のてっぺんから足の先まで変わってゆきました。
女性達も和服に革靴。襟元にはブローチ。指輪をはめて、帽子にパラソル、と、実に賑やかです。
その頃の簪には、それ等、時代のものがいち早く添えられ、鉄道馬車にガス灯。時計に磁石。と呆れるほどのデコレーションです。
それも最後の徒花。女性達は非活動的な日本髪に見切りをつけ、季節感も稀薄となり、髪を飾るという日本の文化の中から、文芸も教養も影をひそめました。
その後は、ヨーロッパから逆輸入されたジャポニズムの影響で、アールヌーボー様式の櫛が大正時代に見られるくらいで、あとは、これといった動きもヘア・ファッションとしての興隆もありませんでした。
大正に続いては「戦争の昭和」です。『贅沢は敵だ。』『欲しがりません、勝つまでは。』で、文化は衰弱しました。
戦後、各分野にて驚異的な復興を遂げたとはいえ、髪に関するアートは、現在に至るまで、その展開において、ややもすれば低調と言わざるを得ません。
綺麗なだけで、香りも匂いもないお洒落、といった域から脱脚して、なんとか、新しい輝きに充ちた髪の文化を誕生させたいものです。新しさは若さです。
その意味で私は大きく期待しています。当・櫛かんざし美術館の「大きな、べっこうの、象の耳掻き」を不思議なものとしてご覧になる今の若い人達に、です。その人達に、未来への希望を私は託しています。
全館の展示は年4回、季節に合わせて変化をつけ、日本の櫛・簪の多様性をどなたにも楽しくご覧いただけるよう企画しております。一度お出かけくださいませんか。澤乃井酒造の対岸の坂の上にございます。
※この内容は2012年に公開されたものです。
※「櫛かんざし美術館」は閉館いたしました。